私は長い間、「人が怖い」と感じながら生きてきました。
例えば、誰かにご飯や遊びに誘ってもらえると、とても嬉しいのに、
いざその場になると、胸のあたりがぎゅっと苦しくなります。
実際に会っている最中も、帰宅したあとも、
どこか落ち着かず、安心できませんでした。
「やっぱり私は人といるのが苦手なんだな」
「相手の迷惑になっていなかっただろうか」
「こんな気持ちを抱えながら人と会うのは、なんだか申し訳ないな」
そんな言葉が、いつも自動的に頭に浮かんでいました。
「人が怖い」という感覚の本当の中身
最近になって、ようやくひとつの気づきがありました。
私が怖かったのは、「人」そのものではなく、
自分が存在していていいのか分からないまま、人と一緒にいること
だったのではないか、ということです。
もう少し正確に言うと、
「迷惑をかける存在かもしれない私」が、人の前にいることが怖かった
のだと思います。
無意識に働いていた自動思考
人と一緒にいるとき、私の中では、こんな前提が無意識に働いていました。
- 人といる=相手の貴重な時間をもらっている
- だから、その時間に何かしらの価値を提供しなければならない
- 楽しませなければいけない
- 役に立たなければいけない
この前提を抱えたままだと、
- ただ一緒にご飯を食べること
- 同じ空間にいること
といった、とてもシンプルな行為が、
緊張を伴う”役割”に変わってしまいます。
その結果、私は「今ここ」にいる感覚を失い、
心からその時間を感じる余裕がなくなっていました。
AC・愛着の問題とのつながり
この感覚は、アダルトチルドレン(AC)や愛着の問題と、
とても深く関係していると感じています。
子どもの頃、
- そのままの自分で歓迎された記憶が少なかった
- 「役に立つ」「いい子」でいることで居場所を保っていた
- 存在そのものが、誰かの負担になっているように感じていた
こうした体験があると、無意識のうちに、こんな考え方を身につけてしまうことがあります。
「私は、条件を満たさなければ、ここにいてはいけない」
すると大人になってからも、
- 何も提供できない自分
- 楽しめない自分
- 話題を出せない自分
そういう自分を、強く責めてしまいやすくなります。
「人が怖い」は、自分との関係性の問題だった
ここで、私の中で大きな見方の変化が起きました。
私はこれまで、
- 人間関係が苦手
- 人付き合いに向いていない
そう思い込んでいましたが、
実際には、
自分自身と、安心した関係を結べていなかっただけ
なのかもしれません。
自分に対して、いつもこんな問いを投げかけていました。
- 私はここにいてもいいのだろうか
- 私は迷惑ではないだろうか
- 私には価値があるのだろうか
この問いを抱えたまま人と関われば、
怖さや緊張が生まれるのは、とても自然なことだと思います。
条件付きでしか自分を出してはいけないと思い込んできた人へ
もし、
- 人といると胸が苦しくなる
- 楽しめない自分を責めてしまう
- 雑談が苦手で、人と会う意味が分からなくなる
そんな感覚があるとしたら、それは決して「欠陥」ではありません。
それは、これまでの環境の中で生き延びるために身につけてきた、
とても自然な反応なのだと思います。
今、私が大切にしている視点
最近は、こんなふうに意識するよう心がけています。
- 人といる時間は、価値を提供する場でなくてもいい
- 無理に楽しめなくてもいい
- たくさん話さなくてもいい
- 同じ時間を過ごすだけで成立する関係もある
そして何より、
「一緒にいたいかどうか」を決めるのは、私ではなく相手なのだ
ということです。
おわりに
「人が怖い」という感覚の奥には、
自分が存在していていいのか分からない不安
が隠れていることがあります。
もし、この記事を読んでくださっているあなたが、
同じような感覚を抱えているとしたら、
それは人付き合いが下手だからでも、人間関係の才能がないからでもなく、
これまで自分に、とても厳しく向き合ってきただけなのかもしれません。
もし、すぐに自分に優しくできなくても、それでも大丈夫です。
これまで十分すぎるほど頑張ってきた心が、
少しずつ力を抜いていく途中にいるだけなのだと思います。
この気づきが、誰かの胸の奥にある「ぎゅっとした感覚」を、
ほんの少しでも緩めるきっかけになれば嬉しいです。

